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Hong Kong (香港) Jun 2014
Hong Kong Island (香港島)

Near Central=中環(ちゅうかん/ツンワン)


Many tramcars (streetcars), busses and taxis run on the narrow street at the same time. It looks very scary but is very safe in fact! They run in order.

多くの路面電車、バス、タクシーが、同じ時に、狭い道を走っています。 とても恐く見えますが、実際はとても安全です。 それらは、整然と走っています。



↑A lot of buildings and roads are under construction. They use bamboos as scaffolding. Unbelievable!!

たくさんのビルと道路が工事中です。足場には竹が使われています。信じがたいことです!

To ride tramcars and boats below, it costs just about 30 yen!! Amazing!
(Tram car: HK$2.3, Boat: HK$2 per adult. HK$1≒13yen)
路面電車や下の船に乗るのに、たった30円くらいしかかかりません。  びっくり!

     


ABERDEEN
The small port is crowded with so many kinds of boats. It looks chaos. But the boats go really in order!
Sea foods are quite good.
The fruit below tastes like rich yoghurt. The outside is solid and the inside looks like litchi. But it is much bigger and juicyer. My friends and I didn't know its name. It was said to be imported from Malaysia(?).
…Soon afterward I found it a mangosteen.

アバディーン
小さな港には、ものすごくたくさんの種類の船がひしめき合っています。カオス(大混乱)に見えますが、船は実に整然と進みます。

魚介料理はとてもおいしいです。
下のフルーツは濃厚なヨーグルトのような味がします。外側は固いですが、内側はライチに似ています。でも、ずっと大きく、汁が多くておいしいです。友達も私も名前は知りませんが、マレーシア(?)あたりから輸入されているということでした。

…その後まもなくマンゴスチンだとわかりました。

    

    



ABERDEEN 
    
Daytime ↑ & Nighttime ↓
アバディーン   昼     と     夜





Victoria Harbor seen from Kowloon
九龍から見たビクトリアハーバー



A view from Victoria Peak, looking north over Central, Victoria Harbour and Kowloon at night.
セントラル地区越しに北を見た、ビクトリアピークからの眺め、夜のビクトリアハーバーと九龍。





About Hong Kong from Wikipedia   (香港について、ウィキペディアより)

It was not until 29 August 1842 that the island was formally ceded in perpetuity to the United Kingdom under the Treaty of Nanking. The British officially established a Crown colony, and founded the City of Victoria the following year.

On 1 July 1997 the transfer of sovereignty from United Kingdom to China occurred, officially ending 156 years of British colonial rule.


1842年:南京条約で香港島を清朝からイギリスに永久割譲
1997年:7月1日イギリスから中華人民共和国への返還(主権移譲)。

2011年の人口調査の結果によると、香港の人口は707万1576人で、前回2006年の調査に比べて0.6%の増加であった。香港は世界で最も人口密度が高い地域の一つであり、1平方キロメートル当たりの人口密度は6540人(2010年)である。

香港の人口で最も多いのは「華人」と呼ばれる中国系で、全体の93%を占める。華人以外で多いのはメイドなどの出稼ぎ労働者として多くが働いているフィリピン人やインドネシア人で、かつての宗主国のイギリス人が次ぐ。日本人は約1万4000人居住している。

香港返還以降の人口増加の大半は本土からの移民による。2001年時点の香港総人口の約1割と言われている。

2013年9月、アメリカのダウ・ジョーンズなどが公表した世界の金融センターランキングによると、香港はニューヨーク、ロンドンに次ぐ世界3位である。

香港における超高層建築の集積率はアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン地区を抜き、現在は世界で最も多い

主な超高層建築
  • 環球貿易広場 (International Commerce Centre) :地上118階建・高さ484.0m…2010年竣工/西九龍
  • 国際金融中心・第二期 (Two International Finance Centre) :地上88階建・高さ415.8m…2003年竣工/中環
  • セントラルプラザ地上78階建・高さ374.0m…1992年竣工/湾仔
  • 中国銀行タワー:地上72階建・高さ367.4m…1990年竣工/金鐘
  • ザ・センター:地上73階建・高さ346.0m…1998年竣工/上環
  • ニーナタワー :地上80階建・高さ318.8m…2006年竣工/荃湾
  • 港島東中心 (One Island East) :地上70階建・高さ308.8m…2008年竣工/太古
  • 長江センター:地上63階建・高さ282.9m…1999年竣工/金鐘
  • ハイアットリージェンシー香港:地上64階建・高さ261.0m…2007年竣工/尖沙咀



 香港について、ウィキペディアの英語版と日本語版の記述を読みました。そして、気づいたのは、そこに掲載された記述が、英語版と日本語版で、日本の印象が違うということです。

以下に引用した、1941-45の日本占領時期の香港についての記述をご覧ください。

   香港と日本との関係について、日本では詳しい歴史を学校で学ぶ機会というのはあまりないと思います。しかし、香港の人々にとっては、自分の土地を占領した「外国人(日本人を含む)」がどのようであったかは、無視できない問題でしょう。
 
  「Hong Kong」で英語バージョンで検索をすると、日本が香港を占領していた時がどのようであったのか、詳しく英語で記述しているのですが、日本語バージョンの「香港」で検索すると、事実が、簡単に説明されているだけです。実は、「日本占領時期の香港」を別途検索すると、かなり詳しい記述もあるのですが、わざわざ読むということは、一般的にはあまりない気がします。また、書かれている内容や印象も、イギリスの植民地としての記述も含み、微妙に違います。
今回、私の初香港旅行にあたり、香港について調べ、初めて気づいたことです。

  
歴史についての記述は、ウィキペディアにかかわらず、史実のどの部分を切り取るかで印象が変わってきて、さらにそれが正しいのか正しくないのかは、歴史学者でもないとわからない部分があると思います。しかし、多くの外国人が、英語などの言語を通して日本について知識を得ていると考えると、英語で日本についてどのように語られているか、知っておく必要もあると思います。そして、国際化が無視できない現代、一握りではなく、多くの日本人が、普通に英語を理解できる力を持つということは、とても重要な事ではないかと、改めて感じました。






香港の歴史: 日本の占領時期の香港 (ウィキペディアより)

Japanese occupation: 1941-45

As part of the military campaign in East Asia and the Pacific, the Japanese Empire, ally of Germany and Italy, declared war against the British Crown Colony. Despite numerous petitions of Hong Kong to remain a neutral port during the Second World War, Japanese armies moved south from the City of Canton and crossed the Shenzhen River to enter Hong Kong on 8 December 1941.

The Battle of Hong Kong ended with the British and Canadian defenders surrendering control of the Crown Colony to Japan on 25 December 1941. This day was regarded by the locals as the Black Christmas Day.

*surrender
A to B = AをBに明け渡す

Under the Japanese occupation of Hong Kong, civilians suffered widespread food shortages, limited rationing and hyper-inflation arising from the forced exchange of currency from Hong Kong Dollars to Japanese military banknotes. The initial ratio of 2:1 was gradually devalued to 4:1 and ownership of Hong Kong Dollars was declared illegal and punishable by harsh torture. Through a policy of enforced repatriation of the unemployed to mainland China, the population of Hong Kong had dwindled from 1.6 million in 1941 to 600,000 in 1945, when Britain resumed control of the Crown Colony.

*rationing =ショニングゥ/レイショニングゥ=配給
*enforce=
~を押し付ける
*repatriate=リペイトリエイトゥ=(亡命者など)を送還する(⇔expatriate追放する)
repatriation=本国送還
*dwindle=だんだん少なくなる

End to open border: the 1950s

The Chinese communist party's establishment of a socialist state in China on 1 October 1949 caused the British colonial government to reconsider Hong Kong's open border to mainland China. In 1951, a boundary zone was demarked as a buffer zone against military attacks from communist China. Border posts in the north of Hong Kong began operation in 1953 to regulate the movement of people and goods into and out of British Hong Kong.

*demark=demarcate=
ディマーケイトゥ=~の境界を定める
*buffer=
ばっふぁー-=緩衝剤  buffer zone=緩衝地帯


1941年:太平洋戦争大東亜戦争)勃発。日本軍がイギリス軍を放逐し占領した。酒井隆陸軍中将が香港軍政庁長官に就任。

1942年:磯谷廉介陸軍中将が香港総督に就任。

1945年:日本の連合国軍に対する敗戦によりイギリスの植民地に復帰。

1950年:イギリスが中華人民共和国承認




「日本占領時期の香港」

 香港は当時日本とは交戦状態になかったイギリスの植民地として中立地帯であり、日本軍が進出し戦闘状態におかれることはなかった。そのため、香港の人口は1936年に100万人だったものが、中国各地から戦闘を避ける避難民が殺到し1940年には160万人にまで膨張していた。その後日本軍の占領下の香港から70万人前後の中国人住民が中国本土に退去し、占領前に160万人の人口を抱えていた香港は、1945年(民国34年)8月の終戦時には人口が60万人程度にまで減少した。その後、イギリスの植民地に復帰した香港では、この3年8か月間にわたる日本統治時期を「三年零八個月」と呼んでいる。なお、日本軍政府により発行された軍票は、日本の敗戦に伴いイギリス軍の命令により無価値とされ、中華人民共和国が香港を統治することとなった現在も、日本政府に経済的補償を要求する香港人も存在している。

 1945年8月15日、日本はイギリスと中華民国を含む連合国に対し無条件降伏し戦争は終結した。これにより日本の統治が終わった香港の帰属問題が生じた。中国人がその殆どを占める当時の香港の世論は、「阿片戦争」という過去の不当な戦争により清国から強引に主権を奪ったイギリスへ主権を戻さず、清国を継いで中国を統治している蒋介石率いる中華民国に返還すべきであるというものであった。しかしイギリスは返還を拒否する強硬な態度に出た。これは戦勝国間の大戦後の利害関係の対立が生じつつあったためである。

 この様な住民からの声を無視する形で、イギリスは日本が無条件降伏をした8月15日に香港統治の回復を宣言した。これに対し中華民国は抗議したが、同じ連合国であるアメリカ合衆国政府の調停により、中華民国側も最終的に了承した。8月30日にイギリス海軍の少将のハーコートは香港に到着し、正式にイギリスによる香港の主権回復となった。この日は「重光紀念日」として、イギリスの植民地支配が終結する1997年まで香港の祝日であった。